「皆幸せに暮らしました。めでたしめでたし」
「…うん!おもしろかった!」
「望美の世界の話も素敵ね。」

陽だまりの縁側で繰り広げられる穏やかな風景。
その輪の片隅で、書物を広げながら彼女達の柔らかな声音に耳を澄ます。

「うーん…じゃあもうひとつね。むかしむかし…」

それは、美しい彼女の声が語る綺麗な海の物語。
半魚の姫が人間の王子に焦がれ、人を模してその傍で紡ぐ日々の。


044. 棘


「人魚姫は、"嵐の晩、王子様を助けたのは自分だ"と伝えられませんでした」
「人の姿に変わる代わりに、美しい声を海の魔女に取り上げられてしまっていたからです」

半魚の姫が変化の代償として奪われたもの。
それは鈴のような美しい声ではなかったのかもしれない。
誰よりも愛する王子を偽りつづける現実を突きつけられて
喉元は毒を孕んだように詰り声など出せるはずもない。

だから、ただ。

彼女は微笑むだけ。
自分というすべてを受け入れてくれたなら。
この偽りの姿ごと、どうか。

それはなんと傲慢で、切ない願い。


その筋書きに、心惹かれて面を上げると
不意に、遠く哀しい色をした望美さんの視線とかち合った。
この舌は心に浮かんだものと毛色の異なる疑問を形作る。

「……その、話は?」

「ああ、弁慶さん。これは…人魚姫、っていう話なんです」
その微かな不自然さに気づくことなく、彼女は少し寂しそうにそう呟く。

「…哀しい恋の物語なのね…望美の世界にもそんな…」
「……人魚姫、どうなっちゃったの?」
二人の観衆の言葉に、彼女は僅かに微笑を浮かべて見せた。
「…結ばれず海に身を投げた人魚姫は、泡になって消えてしまったの」

痛みを堪えて、尚気丈に振舞うかのような沈痛な微笑だった。

「…消えて……?」
「……そう、消えてしまったの。…待っている人の、悲痛な未来を知らぬまま」

次の瞬間、再び意志の強い瞳に見つめなおされて、
その深さに何故か僕は自分が消えるはずの海の深淵を想った。


+ + + + + + + + + + 


「海の藻屑に…ね」

…そうなったら、彼女を苦しませる事はないのかもしれない。
最期にひとりきりで、すべての後始末を任せてしまうに違いない
その細い背にかかる負担が少しでも減るのなら。

いっそ、全てが終わった瞬間に泡になって消えてしまえればいいのに。


「…どうかしたのか?」

不意に後方から慣れ親しんだ声がこの身を呼びとめる。
振り返る刹那、暗い影を振り切る様に微笑んで。

「…九郎?」

…ああそうか。

どうして、些細な御伽噺が思考の片隅にこびりついて離れないのか。
それはこの喉に刺さった罪という棘。
ちくりと鈍く痛んで九郎に全てを打ち明けることを赦さない。

「…先程まで望美さんの世界の御伽噺を聞いていたのです」
「望美の?…そうか」
それは興味深いな、と滅多に見せない柔らかい微笑を浮かべるきみ。
その純粋な想いに、ここまできて未だ心が軋む自分に吐き気すら感じて意識的に口角を引き上げる。
作ることに慣れきった、自嘲のかたちに。


…きみは六条堀川にいたから知らない。
あの人魚の姫が選んだ結末を。
そして、これからもずっと知ることはないだろう。
彼女が違う誰かと幸せそうに笑う人に一度は振り上げた短刀を、…その意味を。

胸に抱いた九郎を欺く選択肢。
それはかの姫御前が胸に抱いた短刀のように。
目の前で幸せそうに微笑むこの人に
振り上げて迷いなく振り下ろす事が、僕に本当にできるのだろうか?

そう心に決めたのにもかかわらず、運命がこの身を泡沫にしても
これ以上きみを血で、涙で濡らすことはしたくないと
願ってしまうのは未練なのだろうか。

「…ふふ、九郎は望美さんの話になるととっても優しそうな顔になるんですね」
「…なんだ、その言い草は」
「いいえ?…じゃあ、またの機会に他の話も聞いてみましょうか」

心に宿る迷いに流されないようにその微笑に背を向け歩み始めれば。

「…いや、それよりもお前から聞きたいことがあるんだ」

背後からかけられた愛しい声に
ざわり、と溢れ出しそうな想いが胸の中で揺れる。

「望美から聞いた話もだが…お前のこと…ヒノエのことや、熊野の出身だということ。俺はずっとお前の傍にいるのに何も知らなかった。…京の町の噂のことだって…お前は動じてなかったから…知って、いたんだろう?だから」

「……っ」
『やめてください』

制止の声は、喉に突き刺さった幻の棘の痛みで鈍く詰まる。

「おまえのことが、もっと知りたいって…そう、思うんだ」

…ねぇ、半魚の姫よ。浅はかなきみよ。
もし…愛する王子が、ありのままの貴女を受け入れてくれたとして
その棘は、罪は消えると…本当に思っていたのですか。
…痛みは、いつか消えるのですか。

「…そうですね、ではいつか」

その'いつか'が訪れるときが永久にないこと。
それを一番理解しているのは自分。

「いつか、じゃない。近いうちにな」

差し伸べられる暖かな腕に縋りそうになる。
罪に痛む喉。嗚咽でも奇声でもいい
声あげることが出来たなら。

苦しみでも悲しみでも絶望でもきみに伝えることができたのに。

吸い寄せられるように貴方に向けた
指先に力をこめて胸を掻き毟る。
そこに秘めた決意を、貴方に振り下ろす刃をもう一度確かめるように。

「……いつか。きっと…」

“さようなら、大切なきみ”

そんな些細な別れの言葉も音に出来ないのなら
握り締める痛みでこの胸を突き、
報われる事のない想いを封じ込めたまま、泡になって消えてしまいたい。

僕の消える深淵。
その暗く遠い海の底から飲みこんだ言葉だけが小さな気泡となって、
いつかきみに届けばいい。

幸せそうに笑うきみが気づかない程度にささやかに。

 
044.棘 

九弁のこのあたりは、もう、どうしようもないくらいたまらん。
リハビリも兼ねてドリルのように書き連ねています。
王道と呼ばれるような展開を新鮮に描けるちからが欲しいです。とほほ。


2006/12/08 harusame
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